全反射吸収(ATR)法は、赤外分光法における測定手法の一つで、今日では最も一般的な測定手法となっています。
その理由は、ATR法の測定しやすさと、幅広い種類の試料に適用可能な点にあります。
ATR法は、赤外光をATR結晶を通して試料に照射するというシンプルなものです。赤外光は試料と相互作用し、再びATR結晶を通過し、検出されます。 しかし、このプロセスで何が起こっているのか、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
光がさまざまな媒質を通過するとき、屈折率と呼ばれる性質が支配的です。屈折率とは、その媒体を通過する光がどの程度曲げられるかを示すものです。つまり、光がある媒体から別の媒体に移動するとき、光線は曲がって異なる角度で移動することになります。例えば、空気とガラスでは屈折率が異なるため、光線が空気からガラスに移動すると、光線の角度が変化します。
しかし、光線が一定の角度で入射し、第2の媒質が第1の媒質よりも屈折率が低い場合、光線は代わりに内部反射されることがあります。つまり、光線は第二の媒質で跳ね返り、第一の媒質を通過して戻ってくることになります。
ATR測定では、ATR結晶の屈折率が試料の屈折率よりは高い必要があります。このとき、赤外光はATR結晶と試料の界面で内部反射を起こします。しかし、光が試料に反射するだけなら、赤外光はどのように試料と相互作用して赤外スペクトルを生成するのでしょうか?
光はビーム状に進むように例えられることが多いのですが、実際には波のように進み、波は空間内で少し広がる傾向があります。つまり、ATR結晶の中を進む光は試料表面でほぼ反射されるものの、その一部は試料の内部にわずかに潜り込みことができます。
試料と相互作用するこの光は、しばしばエバネッセント波またはエバネッセント光と呼ばれます。この光の強度は急速に減衰するため、赤外光は試料の極表面の数ミクロンとしか相互作用せず、ATRスペクトルを取得することになります。潜り込み深さは結晶材料に依存します(下記参照)。
ATR法は、原理上、透過法と若干の違いがあります。ATR法では赤外光が屈折しますが、赤外光の波長によって屈折の仕方が微妙に異なります。その結果、ある波長の赤外光は他の波長の赤外光よりも深く試料に潜り込むことになります。しかし、透過法では、赤外光は試料を直接透過するため、異なる波長の赤外光の透過深度はスペクトルに影響を与える要因とはなりません。
ATRスペクトルは、基本的なバンドパターンが同じであるため、透過スペクトルにとても類似していますが、この2つの測定手法によって得られたスペクトルにはいくつかの相違点が存在します。すなわち、赤外光の波長の違いにより、信号の強度が変化したり、ピーク位置が変化したりすることがあります。幸いにも、これらの違いは最新のコンピューターソフトウェアで簡単に補正することができるため、ATR法と透過法で得られたスペクトルを直接比較することが可能です。
ATR法がFT-IR分光法の代表的な測定手法となったのには、多くの理由があります。ATR法が透過法と比較して最も優れている点は、大掛かりな試料調製が不要であることです。液体、ペースト、粉体、ペレット、さらには大きなワークピースや完成品など、ほぼ全ての試料タイプについて、高品質のIRスペクトルを取得することができます。
試料の材質、大きさ、形状を問わず、安定してスペクトルが得られます。そのため、ATR測定は非常に簡単で、再現性が高く、オペレーターのミスがほとんどありません。また、ATR法は試料の前処理が不要なため、非破壊的な測定手法でもあります。さらに、ATR測定後の清掃も簡単で、柔らかい布と少量のアルコールを用いてATR結晶表面から試料を拭き取るだけで完了です。
ATR測定には、多くのアクセサリーや結晶の種類があるため、様々な試料に適用できます。固体試料の分析には、圧力をかけるアクセサリーを使用し、試料と結晶の接触を良好にすることができます。フローセルを取り付けた場合は、複数の液体試料を簡単に注入することができます。また、ATR結晶を加熱することで、試料を抽出する際に使用した溶媒を簡単に蒸発させることも可能です。
ATR測定の可能性は無限大です。
ただし、ATR測定に使用する結晶は、試料によって適した特性が異なるため、その選択には注意が必要です。結晶材料としては一般的に、ダイヤモンド、ゲルマニウム、セレン化亜鉛の3つが用いられます。
ダイヤモンド(Di) |
ゲルマニウム(Ge) |
セレン化亜鉛(ZnSe) |
|
測定可能範囲 |
45 000 - 10 cm-1 | 5 000 - 600 cm-1 | 20 000 - 500 cm-1 |
硬度(ヌープ) |
9 000 | 550 | 130 |
屈折率 |
2.4 | 4.01 | 2.43 |
光の潜り込み深さ |
1.66 µm | 0.65 µm | 1.66 µm |
化学的/物理的不活性度 |
高 |
中 - 高 | 低 |
ダイヤモンドは、ほぼ全ての試料に対応できる、優れた汎用素材です。ダイヤモンドは非常に硬く、化学的に不活性であるため、化学的・物理的なダメージに非常に強いです。高い圧力を必要とする試料の分析に適している、唯一の結晶材料です。
ダイヤモンドはほとんどの用途に適していますが、全ての試料を分析するための十分な高い屈折率を有しているわけではありません。カーボンブラックを充填したゴムなど、屈折率が非常に高い試料の測定には、別の結晶材料が必要になります。
ダイヤモンドは最も手頃な価格の結晶材料ではありませんが、非常に耐久性に優れ寿命が長いことから、ダイヤモンドATR結晶を購入することは、長い目で見れば良い投資と言えます。
ゲルマニウムはダイヤモンドよりも高い屈折率をもつため、他の結晶では不可能な試料の分析に有効です。ゲルマニウムは、吸収の強い黒色物質の分析に優れており、さらには、浸透レンズ効果により高解像度のFT-IR顕微鏡にも広く使用されています。
ゲルマニウム結晶は、赤外光の潜り込み深さが浅いため、一般的に信号が弱く、結晶材料としての有用性は限定的です。しかし、このことは、ポリマーフィルムコーティングなど、試料の極表面の薄い層を選択的に分析するような用途に有効です。
ゲルマニウムはこのような用途に適していますが、いくつかの欠点があります。 まず、ゲルマニウムは他の結晶材料に比べて測定可能な波数領域が狭く、分析の範囲が限定される可能性があります。また、ゲルマニウムは、硬い試料により簡単に傷を付けられたり、へこんだりしやすいという欠点もあります。
セレン化亜鉛もまた、幅広い用途に適した結晶材料で、ダイヤモンドと同じように多くの用途に使用することができます。また、ダイヤモンドよりも安価で購入することができます。
しかし、セレン化亜鉛は、ダイヤモンドほどの耐久性はありません。硬度が低いため傷がつきやすいだけでなく、化学的な耐性も劣ります。pH5~9の範囲でしか使用できず、pHが9より高い試料は結晶にダメージを与え、pHが4以下の酸性試料は結晶と反応して有毒で可燃性のガスであるSeH2を発生させる可能性があります。
もう一つの結晶オプションとして、多反射アクセサリーが挙げられます。これは、セレン化亜鉛でできた長方形のATR結晶で、赤外光を複数回反射させることができます。これにより、赤外光は試料とより多く相互作用し、試料の吸収量を増加させます。
多反射アクセサリーは、赤外光の吸収が弱い試料や低濃度の試料に対して、高品質のスペクトルを取得するために効果的です。また、液体やペーストを迅速かつ簡単に分析するためにも便利です。ATR法は、FT-IR分光法のための非常に汎用性の高い測定技術です。使いやすく、メンテナンスも簡単で、豊富なオプションを備えているため、ほぼ全ての試料を分析することができます。このような長所から、ATR法がFT-IR分光法の最も一般的な測定手法となったのは当然と言えます。